人生ダイヤは友達から教えてもらった素敵な言葉。わりとまともっぽいようなよりとりとめないような。
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自分の生きていくこと、これからの世のことをある意味、不信を抱いた厳しい目を持って見つめなければならないように思う。
最近奇妙に思うのはアンチエイジングのブームに関連して起こっている、しわやしみのない顔の異様さである。
まず年を経るということに対して、古くなる、衰えるといった恐怖を抱いている。
年を経ることがつまり恐ろしいもので、避けようもないのに拒んでいるということである。
傷やその人の顔に刻まれた跡というのは、その人がどのように生きてきたかを物語る一種の財産であるのに
何を恐れているのだろうか。
老いは拒むものではない。
ともに共存していくはずのものだ。
この皮膚への異常な執着はおそらく、視覚のみに重きを置いているこの現代の風潮が原因だろう。
一見、常識を持っている人さえ、妙なことを口走っていることがある。
コンピュータを最終的に人体に取り入れ、「死」からの脱却をはかる。人間の持てる能力以上の能力を発揮するなどという話題に対して嬉々として飛びついている。
つまり肉体が死ななければ、動いていれば生きているということである。
死のない生などもはや生きていることではない。
たった一度の生であるから、気高さと誇りを持って、生きようと思えるのではなかったか。
終わりのない生にはおそらく、情熱も誇りも、ましてや尊厳もないだろう。
精神の死が肉体の死よりも残酷なことを私は体験として知っている。
ひどく惨めなのだ。
そんな生に
もしくは死に
人類はしがみつこうとしている。
自分が、ただの一匹の獣であるということさえ忘れ果ててゆくのか。
人間が人間以上の能力を手に入れれば、人間の破滅は一気に加速するだろう。
おそらく私が生まれたこの国は、規模こそ小さいものの、先進国として、世界全体の破滅の予行演習を今、急速に展開している。
人が肉体に機器を仕込む前なら希望はある。
今の私たちの肉体は比率が少し変わったりはしているものの、根本的な要素や仕組みは千年前と少しも変わっていない。
今、この時代のこの国に生まれた私が、全うしなければならない正義はなんだろう。
何が、出来るか。
たぶん絵を描き、ものを作るという手段は、これは変わらない。
問題は、このツールを使い、何を、人に訴えるかだ。
さも平然と嘘をつく世に対して、一人ひとり、疑いの目を向けてほしい。
それは卑しさから生まれる疑念ではなく、真実を見抜くための、思考するまなざしだ。
日常の中でも、ありきたりな風景の中に異様なほころびが見えるはずだ。
考える勇気を放棄してはいけない。
生きる事への幸福を忘れてはならない。
私たちは、たった一回の全うすべき生を与えられた、一匹の獣であったはずだ。
最近奇妙に思うのはアンチエイジングのブームに関連して起こっている、しわやしみのない顔の異様さである。
まず年を経るということに対して、古くなる、衰えるといった恐怖を抱いている。
年を経ることがつまり恐ろしいもので、避けようもないのに拒んでいるということである。
傷やその人の顔に刻まれた跡というのは、その人がどのように生きてきたかを物語る一種の財産であるのに
何を恐れているのだろうか。
老いは拒むものではない。
ともに共存していくはずのものだ。
この皮膚への異常な執着はおそらく、視覚のみに重きを置いているこの現代の風潮が原因だろう。
一見、常識を持っている人さえ、妙なことを口走っていることがある。
コンピュータを最終的に人体に取り入れ、「死」からの脱却をはかる。人間の持てる能力以上の能力を発揮するなどという話題に対して嬉々として飛びついている。
つまり肉体が死ななければ、動いていれば生きているということである。
死のない生などもはや生きていることではない。
たった一度の生であるから、気高さと誇りを持って、生きようと思えるのではなかったか。
終わりのない生にはおそらく、情熱も誇りも、ましてや尊厳もないだろう。
精神の死が肉体の死よりも残酷なことを私は体験として知っている。
ひどく惨めなのだ。
そんな生に
もしくは死に
人類はしがみつこうとしている。
自分が、ただの一匹の獣であるということさえ忘れ果ててゆくのか。
人間が人間以上の能力を手に入れれば、人間の破滅は一気に加速するだろう。
おそらく私が生まれたこの国は、規模こそ小さいものの、先進国として、世界全体の破滅の予行演習を今、急速に展開している。
人が肉体に機器を仕込む前なら希望はある。
今の私たちの肉体は比率が少し変わったりはしているものの、根本的な要素や仕組みは千年前と少しも変わっていない。
今、この時代のこの国に生まれた私が、全うしなければならない正義はなんだろう。
何が、出来るか。
たぶん絵を描き、ものを作るという手段は、これは変わらない。
問題は、このツールを使い、何を、人に訴えるかだ。
さも平然と嘘をつく世に対して、一人ひとり、疑いの目を向けてほしい。
それは卑しさから生まれる疑念ではなく、真実を見抜くための、思考するまなざしだ。
日常の中でも、ありきたりな風景の中に異様なほころびが見えるはずだ。
考える勇気を放棄してはいけない。
生きる事への幸福を忘れてはならない。
私たちは、たった一回の全うすべき生を与えられた、一匹の獣であったはずだ。
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